オーストラリアと火災の歴史

今日は久々、東京は雨が降り、
ものすごく寒い1日になりました。

暖房の近くで毛布をかけていたら、
いつのまにか眠ってしまっていた……。

そんな寒い日の一方で、
雨を待ち続けているのは
南半球のオーストラリアでしょうね。

画像は個人的な思い出もあるそうで、
オーストラリアを全面に出している
賢者の会に参加しているJさんの名刺。
Watanabeがデザインしたものです。

コアラの危機……という話は、
以前にブログでも書きました。

とうとう焼失面積は
日本の本州の半分になったそうで、
生物の喪失だけでなく、
大気汚染や水質汚染など、
さまざまな影響も懸念されています。

全豪オープンに出場していた選手が、
突然、呼吸困難で
倒れたりもしていますから、
尋常ではないですよね。
日本の自衛隊も派遣されました。

今回の森林火災、
オーストラリアの観測史上では
120年間で最も大きな被害を出している
……と発表しています。

120年前といえば、
ようするにオーストラリアという国が
誕生した頃。
それ以前はわからないわけです。

ただ、オーストラリアの森林火災は、
国ができる前から
「毎年のこと」ではありました。

そもそもこの時期、気温上昇と乾燥で、
植物が自然発火することは知られていました。

森の生態系も
「火事になること」を前提で
進化してきた経緯があり、
火事を利用して種を拡散する植物もあれば、
ついた火を利用して獲物を捕獲する鳥も
オーストラリアには存在するそうです。

そんななかで人類も、
先住民の頃から
焼き畑農業を行なっていました。

だからこうした、
「火事なんて当たり前」の日常が、
今回の大災害への対応に
遅れを生んだのではないか……という
指摘もあるんですね。

考えてみれば、
日本の地震や台風と同じで、
何度も悲劇を体験しているのに、
私たちはついつい対策を忘れてしまいます。

とくに環境が激変しつつある
現在の地球。
自然に対して「いつものこと」
……なんてないんだと、
私たちは再認識する必要があるでしょうね。



[仕事ができる人の歴史入門]
夏川の「アジア史」入門はこちら

Back to the 1995

1月17日は、阪神淡路大震災から、
ちょうど25年という
節目だったそうです。
もうそんなに経つんですね。

1995年、平成にすると7年のこと。

当時、私は最初に入った会社に
スーツ姿で出勤していました。
まだ20代のころですが、
全国に支社を持っていた会社ですから
大混乱していた記憶があります。

こんなことがあるんだな……と、
当時は驚いていたかもしれない。

じつはこの年の3月に、
私はこの務めていた会社を退職しています。
そのころに起こったのが、
オウム真理教の
「地下鉄サリン事件」でした。

いまでも覚えているのですが、
無職状態でまだ寝ていた私は、
「お母さん、無事でしたよ」という電話で
叩き起こされました。

なんの話かと、テレビをつけると、
世の中は大騒ぎ。
母親はたまたま事件のあった
丸の内線で外出していたんですね。

その後、面接で
社長とオウム雑談をした出版社に
私は再就職。

考えてみれば1995年は、
私にとっても大きな転機になりました。
この年から私が始めていることは、
次のようなもの。

・編集者としての企画づくり
・ビジネス書を読む
 ……というか、私はこの年に
「ビジネス書」なるものが、
世の中にあるのを知ったかもしれない
・Macを使った書籍制作
・私服でのラフな出勤
・髪の毛の色を染めた

画像は辞めた会社の後輩からもらった
目覚まし時計。
壊れているけれど、
なぜかお守りのように持っています。
もう25年も置いてあるんだなあ……。

ちなみに「時事ドットコム」というサイトで、
1995年の国内10大ニュースを見ると、
次のような順位になっていました。

1 阪神淡路大震災
2 地下鉄サリン事件
3 住専などの不良債権問題
4 大和銀行の巨額損失
5 沖縄での米兵による少女暴行事件
6 青島幸男さんと横山ノックさんの知事就任
7 景気低迷による就職難
8 三菱銀行と東京銀行の合併
9 野茂英雄投手のメジャーリーグの大活躍
10 二信組事件

自然災害があり、社会的な問題が吹き出て、
一気に経済システムが崩れ
世の中の仕組みが変わっていったのが
この年だったのかもしれません。

とくに40代以降の方は、
1995年に自分が感じたことを
思い出してみてはいかがでしょう。

いまの時代を乗り切る
大きなヒントが隠されているかもしれませんよ!



[公私混同の時間]

長く愛されるには理由がある

昨年いただいたお菓子。
ご存じの方は多いでしょう。

上野凮月堂の「ゴーフル」ですね。

子供のころはよくもらった気がします。
丸い缶もお馴染み。
でも、今となると、
食べたのは久しぶりかも。

あらためて手に取るとデカイですよねえ。
直径15センチだそうです。
3種類入っていますが、
サクッとした定番の安定した味ですな。

そもそもこのゴーフルって、
洋菓子なのか? 和菓子なのか?
上野凮月堂のホームページを見ると、
会社もお菓子も
とんでもなく長い歴史をもっていることが
わかります。

まず上野凮月堂が創業したのは
1747年のこと。
いまからおよそ270年前の江戸時代です。

大坂で人気のあったお菓子を
江戸の町にも普及させたい……と、
「大坂屋」というお店をつくったんですね。

やがてこのお菓子が評判となり、
その仕事に感銘を受けた
「寛政の改革」の実行者・松平定信が
「凮月堂」の名を贈ったそうです。

そんな凮月堂が
「ゴーフル」をつくったのは、
いまから90年前の1929年のこと。

「洋風の煎餅をつくりたい」と、
研究に研究を重ね、
アメリカ製のクリームを取り寄せ、
現在とほとんど変わらない味を完成させたとか。

欧米の似たお菓子から、
「ゴーフル」と名付けられました。

それから大きく洋菓子に転じていきますが、
残念ながら日本はその後すぐ戦争になり、
お菓子の製造は中止されます。

ただ、戦後、凮月堂は逸早く店を再開し、
ゴーフルを復活させ、
現在はその味を「上野凮月堂」が
継いでいるとのことです。

そんなふうに
江戸からの伝統を継承しながらも、
時代の好みに合う味をつくってきた会社。

日本のお菓子の店というのは、
本当に根気づよいところが多いですよね。
間違いなく私たちが誇れる
文化の1つだと思います!



[効率無視の仕事術]

「電化製品」の仕事術

先週のことですが、
家で使っていた電子レンジが
急に壊れてしまいました。

お弁当を温めたり、
冷凍商品を解凍したり……と、
長く重宝していたもの。
もう十年くらい使っていただろうか。
当然といえば当然でしょう。

そこで急遽、電子レンジを買いに
ビックカメラへ行くことになった
……のですが、
いまの電子レンジって、
どういうものがスタンダーと何だか
ご存じでしょうか?

家庭の主婦の方なら、
あるいは自分で料理をする人なら、
よくご存じかもしれません。

残念ながら私は、その辺の感覚がない。

そこで量販店に行くと、
「なるほど、今はこうなっているんだ……」と
感心します。

何より、「電子レンジ」という商品は
かなり少なくなっている。
ほとんどはオープントースターと一緒になった
「オープンレンジ」というものですね。

でも、オープンは使えるから
必要はない。
単体の電子レンジはないかと探すと、
ちゃんとありました。

およそ売れているのは、
2種類かなと思います。

いろんな料理に合わせた設定ができる
多機能のもの……と、
温めるだけに使える
タイマーがついただけのシンプルなもの。
後者だと数千円で買えますね。

うちの場合、歳とった母親が使うから、
「あたため」というボタンを押せばいい
オート機能のあるものがいい。
該当したのは2製品で、
そのうちすぐに手に入るものを購入。
1万5000円くらいでしたね。

そんなふうに、各用途に合わせると
意外に選択肢が狭くなる
いまの電化製品。
ニーズが多様化した結果なんでしょう。

思ったのは、
やはり「いまの電化製品」は、
ちゃんと情報を押さえていたほうがいい
……ということ。

現代人の考え方や、必要としているものが、
ここには凝縮されていそうですね。

ついでにビックカメラのポイントが
溜まったので、
壊れていたシェーバーをポイントで購入。

ちょっと前のもので値段は安いのですが、
毎日のひげ剃りが、
2枚刃から4枚刃にバージョンアップ。

こっちもずいぶん進化していたんですね。
つい剃り過ぎて、唇を切ってしまった……。



[公私混同の時間]

「愛と勇気と希望の日」の秘密

1月14日というのは、
「愛と勇気と希望の日」
……だったそうです。

一体それは何なのだろう?
アンパンマン……ではありません。
あの、タロとジロを記念した日
……なんですね。

そう言うと私世代の人間は、
高倉健さんが主演した
「南極物語」を思い出すでしょう。

その後、ハリウッドで映画化されたり、
木村拓哉さん主演のドラマにもなった。
そちらで覚えている人もいれば、
若い人は知らないかもしれませんねえ。

すべて実話が元になっています。

1956年に始まった最初の南極越冬隊。
このとき樺太犬のタロとジロは、
仲間と一緒にソリを引く犬として
連れてこられました。

しかし1958年、悪天候で隊は、
急な撤退を余儀なくされます。

そのとき基地に残っていたのは3人。
緊急な救助だったため、
犬たちは鎖につながれたまま、
放置せざるをえなかったわけです。

せめて安楽死させられなかったのか?
非難も浴び、
隊員たちも非常に悔やみました。
帰国後は絶望視された
犬たちの供養が行なわれ、
銅像なども建てられました。

ところが翌年、
再び越冬隊が南極にやってくると、
ヘリコプターに向かって
走ってくる犬が2匹。

それが鎖につながれたまま
置き去りにしたはずの
タロとジロだったわけです。
これが1月14日のことでした。

どうやって鎖を解き、
どうやって厳しい南極の冬を
2匹は乗り越えたのか?

これはもう想像の世界でしかありません。

おそらくは鎖を死に物狂いで外し、
アザラシやらペンギンやらを
自力で捕獲して生き延びた。
これが映画になっています。

確実なことは、共食いすることもなく、
他の犬の死骸も食べず、
まさに「愛と勇気」で2匹は
南極の1年を乗り切ったわけですね。

彼らにとっては、
ただ「生き延びた」というだけのこと。
でも、生き抜くからこそ、
大きな希望が生まれてくる。

なるほど、これを記念日して、
私たちがそのことを再確認するのは
ステキなことかもしれませんね。



[効率無視の仕事術]